070731 人間ラジオ(die pratze・ダンスが見たい!参加公演)

 『人間ラジオ』
 7/31(火) & 8/1(水) 19:30 
 出演:手塚夏子、スズキクリ 照明:中山奈美

http://www.geocities.jp/azabubu/d9
手塚夏子
『人間ラジオ』



【西田】
 いまどきのラジオは自動で周波数を合わせる機能がついていて、周波数を合わせるのに何の苦労もいらない。だが海外短波放送のラジオを買ったときはちょっと違った。周波数も幅広いし、あちこちチューニングすると、世界中のいろいろな言語が飛び込んでくる。つまみを回していると、どこでチューニングされたのかわからないまま、次のチューニングに向かう。一つの言葉が雑音の渦にかき消されたかと思うと、別の言語が登場し、雑音とともに去っていく。オートマティックな機能をはずし、マニュアル操作しようした途端、雑音がいかに多かったかに驚かされる。考えてみれば、日々の生活や習慣で、条件反射的にオートマティックに作動する事柄は非常に多い。手塚が今まで自分の体との対話の中でやってきたことは、オートマティックに反応できそうにないオーダーばかりだった。だからそこにオートマティックな反応は登場しにくい。だがオートマティックに反応しないと思っていても、繰り返すうちに自動装置は反応してしまうかもしれない。手塚が自らに課す課題に対し、他の人はともあれ、非常にプライベートな個の体の中では、オートメーション化された手塚工場身体が作動していないとも言い切れない。手塚はどこかでそこに気づき、自らの自動装置をはずし、もう一度ゼロに戻してみようとしたのではないだろうか。
 自分の体がもし短波ラジオの受信機であるなら、どんな周波数の短波も受け止められるよう、アンテナは四方にたてておくだろう。紙に好き勝手にラクガキしてみたり、突如海は広いな、大きいな、と唱歌を歌ってみたりするのはすべて、どこか何かにチューニングしようとしながら、少しずつチューニングポイントがずれていくさまを見せているように思えた。
ふと日常生活というのは、気づかずにオートマティックなルールにぐるぐる巻きにされている状態を指しているように思えた。何気ないしぐさの癖、いつもの手順。それが身体の感度を鈍くしていることがあるかもしれない。
 突然歌い出したり、くるくる踊り出したり、同じ動作を繰り返してみたり。音を出すはずのスズキクリは、音を出さないようにそろりそろりと歩きながら音をだす。いつもの手塚らしからぬこと、いつものスズキクリらしからぬことが多発する。少々つまみを回す加減が違うだけで、違った音が出る。そのちょっとした違いを敏感に嗅ぎ分け、感じ分けるというチューニングの感度を上げるための仕掛け、それが今回の手塚のダンスだった。


【坂口】
 止まることなくつねに身体との対話を模索し続けている手塚夏子がまた新たな実験を始めた。身体と何が対話するというのか、それは自分だとしたら身体は自分ではないのか、などという身体/精神という古くからある二元論から始まって、即興/振付、意味/無意味、意図的/偶然、成功/失敗、ダンス/ノンダンスという意味の二項対立を身体レベルで溶かしてしまうような彼女の果敢な挑戦は今に始まったことではないのだが、この作品では〈チューニング〉という不思議な概念によって、さらなる新たな領域に踏み込もうとしているようだ。チューニングというのは、外にあるものと何らかの関係性を持とうとすることなのであろうか。自分でない何かになるのでもなく、何かに合わせるだけでもなく、身体によるその微妙な関係性の可能性に彼女は目を向けている。スズキクリがじゃらじゃらと音の鳴るものを身につけながら、絶対に音を立てないようにとソロリソロリと歩いて行くと、手塚夏子は舞台上で対象の位置を保ちながら、音になり損ねた音を気にしつつなにやら即興的にうごめき出す。鳴らない音が気になるのは観客かもしれないけれど、シンメトリカルな位置にあり続けるふたりは、それだけでもひとつの関係性を持っているのだが、だからといってその関係性が意味を生み出すわけでもなく、失敗した音にチューニングするように、意味にならない動きの破片を彼女はていねいにばらまいて行く。短い一連の振付を彼女がいくども繰り返すときにもまた奇妙なことが起こる。繰り返されるからには振付なのだろうが、同じ場所でくるくるまわりながら幾度も執拗に繰り返されると、個々のフレーズが何かの意味を持っているようなフリを装っていたとしても、残像が重なり合って意味が朦朧として行く感覚に襲われる。振付という行為自体もひとつのチューニング=同調行為であるのかもしれない。ラジオというのは受容体ではあるのだが、精密なシステムを備えて自律してもいる。決して何かにそれが成るわけでもなく、何かの意味を纏うわけでもない。私の身体もラジオのように、外から来るものや内から来る様々なものにチューニングしつつ、刹那刹那に変容し続ける。身体の音に聞き耳を立てる主体としての私も刹那刹那に消えては現れるのかもしれないが。ともあれ、チューニングが完了したところで「う〜み〜は〜ひろい〜な〜お〜き〜い〜な〜」と、ばかでかい声があの小さな身体から吹き出すとき、私たちは彼女が正しくチューニングされたことを確信する。


【竹重】
 この作品に対する私の印象は、幾らか複雑である。実際に客席に座って、言わば映画のクローズアップの意識で舞台を観ている時は、手塚夏子の肉体の無表情さに苛々し、どうしようもなく退屈してしまっていた。手塚の踊りを「人間」を超えた不気味なものと感じる人も多いようだが、私には、意識が日常のレベルを右往左往しているだけとしか見えず、表情の多彩さにもかかわらず、トランスフォーメーションが感じられない。それは、彼女が肉体のエロティシズムの領域と向き合っていないからだと思う。ところが、公演後時間が経って、少し引いた意識で作品全体を想い出してみると、意外と堅固な手応えが自分の中に残っているのに驚いた。それは、ダンサーとしては素人なスズキクリを、手塚と常に左右対称的な距離を保って舞台上に存在させ、ラストで手塚が歌い出す場面を除いて、2人のアクティングエリアを舞台裏を含めた舞台の四隅だけに限定したという舞台空間の厳密な幾何学的構造によるものだと思う。


【志賀】
 手塚と男スズキクリが奥のアルコーブに貼った紙を剥がして破く。それに続く淡々と歩む動きには手塚の緊張があふれ出して、見事、見応えがある。男は体にいくつか鳴り物をつけて、それが鳴らないように慎重に歩む。意図せず出た音を音楽として、手塚が上手で前に進む身振りと存在はなんともいいようがなく魅力的だ。手塚は身体の中、自分の奥底に入り込んで、体を探りながら動きをつくり出す。それを見て体験すると、奇妙な感覚、自分の身体を虫が這い回っているような感触を抱くことがある。踊りは自分とは外で表現されているものだが、それがなぜか、僕たちの身体に共振してくる。特異な表現者である。