080928 ロンドンでのパネルディスカッション

9月の終わりに、ロンドンで「Artists Open Doors: Japan/UK」というセミナーに参加してきました。
そこで、アーティストとしてパネルディスカッションしてきました。
様々な日英のオーガナイザーやアーティスト達、いろいろな立場でコミュニティーダンスに関わっている人々のパネルディスカッションを聞き、自分も話をして、また意見交換もしました。
ひとまず、自分の発表をそのままご紹介します。まだまだ、表層的な感じだけど、自分なりにこれからダメだしして行こうかな、と思っています。
もうひとつ、意見交換の中で「オリジナル」ということについて少し話したのですが、そのことを後でまた考えた事を、そのあとに付け加えました。

1) 自己紹介
私は体を観察する事でダンス作品を作っています。「体を観察する」とはどういうことか、手短にお話ししてみたいと思います。体は無意識な状態、動き、反応に満ちていると思います。意識的である事の方がむしろ少ないのではないでしょうか。例えば、足の指の薬指と中指の間を、意識して過ごしている人は少ないと思います。脇の下はどうでしょうか?髪の毛の付け根や奥歯の付け根も、意識する事ってほとんどないと思います。また何気なく手を動かしていたり足を組み替えたり、まばたきしたり、うなずいたり、ほとんど無意識に動かしているのではないかと思います。そういう無意識に満ちた体の状態や動きや、またもっと細かい様々な差異などを、できるだけありのままに対象化する、意識を向けるということが、私にとって体の観察です。観察の試行錯誤を応用してワークショップを行っています。ワークショップでは主に体の地図を描くということをやります。体の地図というのは、自分の体に意識を向けた時に、感じたことをできるだけ具体的に描くというものです。例えば、目をつむって自分の体をスキャンして、一番目立つ、あるいは気になる所をよくよく観察して、そこを紙に描いて、また目をつむって次に気になる所を探し、また紙に描くというような感じで進めて行きます。そしてワークショップで起きている事を観察する事で、またそれをダンス作品に生かしています。
2) 言葉の幅
こういうお話を皆さんとする機会にいつも、難しいと感じるのは、当然の事ですが、言葉には幅があって、人によって認識の差があるということです。特に日本語と英語のやりとりではそれがいっそう大きくなって、難しく感じる事もあります。しかしそこの差を観察する事で、問題の本質が見えてくることもあると思います。時には確認が必要かもしれません。例えば「ダンス」という言葉ひとつとっても、何をダンスとするか、これは境界線を引くのは難しいですが、多分人それぞれにその人なりの境界線という物があるのだろうと思います。「評価」ということもあとで触れますが、何を評価と考えるか、とても難しいと思います。また、「ワークショップ」、「アウトリーチ」、「コミュニティー」、「アーティスト」、という言葉だって、例外ではないでしょう。ここでひとつずつ確認して行く時間はもちろんありませんが、そこに差があるという事を意識しておくだけでも少し違うかもしれません。
3) 二つの事例
私が行ったコミュニティーアーツの実践例を二つご紹介します。(コミュニティーアーツ、という言葉は今回のシンポジウムで初めて知りました)。
ひとつは、ある高校での体育の授業に含まれたダンスの時間でした。生徒は落ち着きがなくて、やる気もあまりなく、集中力もなく、とにかくともだち同士でおしゃべりしたり、という状態でした。私の取り組んでいるワークショップの内容は彼らに受け入れられるだろうかと心配でしたが、とにかくやってみました。1回は体に意識を向けることが中心で、二回目はそれを元に体の地図を描いていただきました。彼らと触れ合って、体の地図を見せてもらって感じた事は、彼らが不安や、深い孤絶感を抱いているのではないかという事です。彼らの地図を少し見ていただきます。

もう一つは、私が長期にわたって取り組んで来た、ある知的障碍者の作業所「ともだちの丘」で行っているワークショップです。そこではとても人数が少ない状態でやっています。父母の希望がある人だけが取り組んでいるのです。ある時はたった一人と一対一でやることもあります。でもそういう時にその人と私の間で、ビックリするくらい創造的な、濃密な時空間が生まれる事があります。その人の内側から神聖で前向きで自由なエネルギーがアウトプットされる。そこには観客もいない、お金も発生しない、しかしかけがえのない時空間で、自分が舞台で何かを上演して、お客さんとのすばらしい関係が生まれている時のような時間なのです。

4) 評価とは何か
二つの事例について、それぞれに評価するとしたらどういったことなのだろうと考えます。
高校の事例では、私が生徒に対して何か役割を果たすにはあまりにも短い時間でしたが、人が抱えている問題の一部分を突きつけられたという点でとても意義深い経験でした。私は自分の事も含めてさまざまに洞察する機会を得ました。不安や孤絶感の根底には何があるのかということです。そこには、自分が世界に存在する価値=「尊厳」が損なわれているという感覚があるのではないだろうか、と思いました。自分のプライドあるいはアイデンティティーにエネルギーが送り込まれる事がない感じ、と言い換える事ができるかもしれない。そういった喪失感をなぜ人が味わっているのだろうか?という問いが元となって世界を見るようになりました。簡単には答える事のできない問題です。でも、関わりの連鎖の中で起きていることではあると思います。そのように関わりを見るとき、それは強烈に世界への認識を深め、作品づくりに対する意欲となっていきました。

また、「ともだちの丘」で先ほどお話ししたような時間が生まれたとき、そのすばらしい時空間は、私や そこに立ち会った人への恩恵ということができるし、それ以外に芸術の価値があるのだろうか?と思えるような物事だと感じました。でも「社会的な評価」ということからは遠い。その実質を、誰に、どのように提示する可能性があるのかは全く分からない。社会では分かりやすい目標達成や成果の提示を求められるものだから。実際にはそういう物事に拮抗する価値を創造するはずの芸術なのではないだろうか?と思います。
5) 求める事の差について
そこで見えてくるのは
A) 現場で求められている事(教師など)
B) アーティストが求めている事
C) 参加者が求めている事
のそれぞれに差があるという事で、評価ということにもそれに応じて差があるという事だろうと思います。また、もっと重要な事は「求める事」というのは自覚的な側面と潜在的な側面があるということです。一概に提示できないという点で更に難しいと思います。とにかく自問自答し、またそれぞれの立場で議論を続けるということなのかもしれません。
6) 意義と役割
そんな中で、それぞれが意義を見いだし、コミュニティーアーツが現場でそれぞれに役割を果たすことができるか、また社会に役割を果たす事ができる状況はどのようにしたら生まれるのだろうか?
私に言える事はアートの価値を問い続けるということではないかと思います。また、様々な問いをぶつけ合う機会を持つということです。今回のシンポジウムはそういう意味でとても意義深いと思います。ただ、問い続けることや、試行錯誤にはとにかくエネルギーと時間がかかるものだと思います。私も、自分の作品の事だけを考える方が良いのではないか?と思う事があります。コミュニティーに対する役割を考える事自体が、逸脱した事、傲慢な事なのではないか?誰も求めていないのではないか?そう考えるととても萎えます。意義を感じている人はエネルギーを損なわないようにしながら、問い続けるということが一番大切でまた難しい事のように思います。

●オリジナルということについて

オリジナルという言葉は、オリジン、起源、源泉というようなことから派生しているのではないかと思う。つまり、掘り下げること、遡ることができる何か、そんなイメージが私にはある。
私が「オリジナリティー」という言葉にこだわったのは、アーティストとしての存在理由以上に、自分が存在していることの拠り所ということで、それは人にとって不可欠なものなのではないかなと思う。生物学的にも、遺伝子レベルで、生まれるものは全て同じ種であっても個々がオリジナルだ。
自分のオリジナルを追求していくと、源流を遡って、共通する響きを持った何かに触れる。だからといって、そこで自分のやってる事がオリジナルではないということは言えないと思う。似ているものがあることで、オリジナルではないということにはならないと思う。私にとっては、掘り下げたり、突き動かされたり、試行錯誤する中で自然に生まれるものはすべてオリジナルと言える。他と違ったものでも、問いが足りないもの、試行錯誤が甘いもの、突き上げるエネルギーよりも義務的な意識によって出てくるものは、オリジナルなエネルギーを感じない。
オリジナルな物事はエネルギーとなって何かに響くように思う。
オーガナイザーも批評家もエージェントも、はたまた文化政策に関係する人も、個人的な欲求のない人はいないと思う。個人的な欲求から派生したものごとには、人を動かし響きを与えるエネルギーとなる。そのエネルギーをもっと感じたり、共感したりしたい。個人的な欲求から派生するためには、「自分は何を欲しているのか」を知るために、自分に問うという作業がかかせないのではないだろうか?