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100504 道場破り日記 5月4〜5日

5/4 昨日泊まった篠原さん、富田さんに加え捩子ぴじん氏見学参加

午前中は、ギャラリーが三人以上になったプレッシャーで高嶋さんは緊張気味。
「見る」ということについての考察。
富田さんが「地」と「図」というキーワードを出してくれて話しがとても有意義になっていく。

今日は、神村さんと手塚が高嶋さんの素材になるにはどうすればいいか考えていった。
神村さんは例えば、身体の一部を意識しようとするとき、外の世界と比較するような、いったり来たりするような感覚がないと、そこに行けない。手塚の場合は、ぎゃくにそこだけに意識を集中し、他はないもののように感じる。そこだけが全体になる。

高嶋さんは記憶や経験を使わずに(自分をそこに加えずに)飛躍を起こすための方法をいつも模索する。
空間の変わり目。 遮断をおこし、遮断の向こうに行く。
フレームは透明にしていく。

午後、高嶋さんの作品ビデオを見る。
確かに、高嶋さんの作品には、図と地を逆にするような感覚、どちらか分からなくするようあ感覚を想起させる何かがある。その瞬間なんともいえない浮遊感を伴う。

そのビデオを模して、私の右手、神村さんの左手で、手を触ったり向かい合わせたりしてみる。むずがゆい感じ。自分の手として相手の手を感じるのは思いの外難しい。そのあと、同じことでお菓子の包みを開ける。ちょっとだけ面白い感覚。そのあと拍手してみる。ちょっと浮遊感がある。でも滑稽だ。

夕方、外に出て散歩しながら、視覚と身体感覚をずらすことができるポイントを探しに行く。いくつかのポイントがあって、私はビックリハウスを思い出す。また、ドリフの八時だよ全員集合!でやっていたコント、壁に寝ているシリーズを思い出した。でもそれだけじゃない。
夕暮れの景色を見ながら、空と湖が交じり合う感じ、どちらがそらか分からなくなる感覚、早朝なのか夕方なのか分からなくなる感覚について、味わい話す。昨日の詩のなぞに近づいたきがした。

5月5日 昨晩、冨田さんと篠原さん帰途につき、今朝、神村さんと捩子さんは本番を迎えるべく旅立っていった。
残された私と高嶋さん。ラストスパートです。高嶋さんは、プレッシャーがなくなって落ち着いていろいろ考えられる感じになってくる。

大きなトピックとして
地と図がどちらか分からなくなるような感覚→自分の立ち位置が分からなくなる→浮遊感にも繋がる

具体的トピックとして
・視覚と身体感覚をずらす。→やはり自分の立ち位置が分からなくなる
・変化が圧縮されてる時間を過ごしたい。
手塚との共通点
・見ているものが向こうにしりぞき、見えないものが浮かび上がる。

手塚の作品「プライベート トレース」の指示書を見てみる。 自分に対して言っているのか、お客さんに対して言っているのか?不明。たぶん、どちらでもない境界のようなところにその言葉を置こうとしているのだろうと思った。もっと意識的になってもいいのか?また、物理的な指示9に対し、1割だけ感覚的な言葉、イメージなどを使っている。この割合は妥当か?

身体の状態=地
に対し
身体の動き=図
という見方があるとして、地が図を規定している。しかし図も地を規定する。
高嶋さんが以前に試したパフォーマンスで、
二人の人間が同じ空間にいて別の次元というのがある。これを会話でできないか?
インターフェースを作ろうとする動き(地)に対し しゃべる(図)を矛盾させるとか?
お互いがしゃべってるけど別のことをしゃべっていて、それが勘違いだと気づかないままガンガン進む。とか。

◎脱線
昔、私が渋谷のどこか高いビルの上でコーヒーを飲んで、そこから窓の外を何気なく見ていた時、高い電線のあたりからカラスの羽が音もなくものすごいゆっくりな速度で落ちていくのを見た。深閑とした感じ。私は自分自身の立ち位置が分からなくなる感覚に襲われた。これは「どっちでもないところ。」これは神聖さと言えるか?言えない。
神聖さには恐れとか敬うとかいうことが歓迎してくる。神様は実は侵略者なのか?

手塚のプラトレの指示は、途中で命令の文章を摩耗させている。意味が分からなくなるくらい、歯抜けさせて短くしている。
それは記述を圧縮するという感じ。

作品をどのようなアウトプットに導くか?
ヒトとの接点としてのインターフェースの問題。金の問題。
美術は他者と共に見るメリットはあるか?
ダンスはそもそも舞台で見るようなものか?(ダンスっていうのは、共同体の中でお互いの共感を楽しむ為のもので、例えば、神楽にしても、ナイトクラブにしても、見るためのものでない気がする。神楽を見に行った時、その土地の人は見たりはしない。そこに浸かるのだ。部外者がそれを見る様はちょっと異様な光景。私も部外者で異様な中の一人なのだった。)
ということにも一応立ち返って考察し直したい欲求あり。
長い目で見て、活動していく中でのアウトプットの可能性について、考え直したい。前向きに。

◎高嶋さんのメモ

記述Aと記述Bがあって
(指示書と言う)

素材(操作対象)

記述(指示書)

素材aと素材(操作対象b)

高嶋さんがその辺にある雑誌の「ドライバーの使い方」という指示書をパソコンに書き出し、文を圧縮してみる。
回すのに30パーセント、押すのに70パーセント、という指示が魅力的。
例えば「茶道」などだったらどんな指示があるだろう?
まずはいろいろな指示書を観察するということをやってみよう!という共通の課題が見えた。
やった!やっと次にやることが見つかったよ!ということで終了〜

100503 道場破り日記 5月3日

朝 高嶋 神村 手塚  午後 篠原さんと富田さん参加

午前中は、試行と交換で高嶋さんがどんなことをやったか、を思い出しながら神村さんに説明。
「あける」と「ひらく」の違い、「触れる」と「さわる」の違いなどの類似語の差異を観察するために
動きに置き換える。参加者が、自分で類似語を決め、それを動きに置き換えて発表。言葉は発表せずに、動きだけを発表。
発表者の一人の動きの差異を観察して、こんどはその差異を文章に置き換える。
課題としては「マット」と「ネコ」という言葉を使った文章に置き換える。

「書く」
「描く」

手で空を真っ直ぐになでる動き
手で空をうねりながらなでる動き

「マットはネコだった」
「マットがネコになる」

「マットはネコだった」という言葉は、時制が気になる。
マットはいままでそう思ってなかったけど、ネコだった。
という風に途中で時間の断絶があって次元が変わる。
これを身体に置き換えるとどうなるか?

ある記憶に没頭している時から、全く別の次元に飛躍する。
夏の海岸をあるいているイメージをもって、その砂浜にスイカがあるのを見つける、
どんどんスイカに近づいていって、ある時パッとスイカが自分を見る。
とかね。

岸井さんの記憶の再生について、アイデアが少し浮かぶ
・電車に乗って風景を見てる時のようなどうでも良い記憶のみをいろいろな人から採取
・私が記憶の中で岸井さんとニアミスしたように、誰かが岸井さんとすれ違った瞬間、できるだけ近くにいた記憶をどこまで近くによれるか掘り起こす。例えば、私が誰かとやる時、私と誰かが最も接近したときを掘り起こそうとする、というのはありな気がする。

午後、少し休憩。

夕方、篠原さんと富田さんが見学してくださって、緊張気味の高嶋さんと、言葉の観察を少しした。

例えば、

1)勉強してるけど、テストはこの程度ってこと?



2)勉強してないから、テストの点が悪いのよ!

の違いについて、考察したりした。
この言葉を発する時に生じる体の状態はどんな感じか興味がわいた。
1)は某かのねじれが発生して、強度が増している、あるいは相手に与えるダメージを増そうとしている。
そういった負のエネルギー。でも違う例

こんなにたくさん入っていて、この値段?

相手に与える好印象を強調。

ねじれを与えて強度を増す。

そのあと、ガートルド・スタインと言う人の詩を観察。

内容が入って来なくても、ある浮遊感と静寂のようなものを深く感じる。
この、浮遊感はどこから来るのか?あとで少しずつ分かって来る。

高嶋さんは、休憩になると急に雄弁になる。
廊下でも階段でも途中で立ち止まって立ち話が始まるとそのまま一時間とか二時間とかもっととかになる。
この日も神村さんの寝室で夜中の3時まで話し続けていたらしい。

100503 道場破り日記 5月2日

昨日の朝、藤野の「篠原の里」で来年の今頃アウトプットしたい、と私が言って、岸井さんは、篠原の里だったら、岸井さんが地域の取材をはじめて、私に依頼されて作品を作るという路線の可能性について考えた。けれど、岸井さん曰く「私がそれをやり続けるという保証が感じられない」などの理由で、岸井さん萎えてしまう。そして主に手塚の「ファンタジー」の問題について、が重層低音のようにテーマの底にある感じで一日が始まる。頭がパンパンになって疲れてきたので、神村さんにヨガを伝授してもらう。

私がもし、篠原あたりで取材することで何かをやるとしたら、いきなり街の人に向き合うというのはやっぱり勇気がいるなあ、そういうことをずっとやっている岸井さんはすごいなあと思う。それをしているところを見学するようなことが必要かも。

お昼にカレーを食べてそのあと、篠原の里へ行く。小学校後なので、ブランコがあって、そこで少しブランコすることで少し頭がほぐれる。神社に行って、そこで、岸井さんの「Actの源流を遡ったらWorkとしての展示に行き着くか?」の試行錯誤をするつもりだったが、岸井さんがその「命題」を考えてしまったら、もう自分は何もやることがないので、私と神村さんに投げて終わり、と言われポカンとして、じゃあ、他に今やるべきことは?ということになって、結局、10年前に記憶の再生を、岸井さんが私にしている状況を、神村さんが見ながら、またその時の形式を採用しながら試してみる。手塚の公開できないような、様々な記憶の開示が次々に展開し始める。私自身も楽しい。そのあと温泉に歩いて行く。その道すがら、私は突然自分のファンタジーの源流を見出す(実際は本当か分からないけど)。それは、私が小学生低学年くらいの頃、両親が抱いていたファンタジーに共鳴した記憶を辿ろうとしてるのかもしれないというもの。これを思い出した瞬間に、(岸井さんが言うように)体がすごく変化するのを感じた。そのファンタジーに関係する場所に、岸井さんと行くことに決定、日程を決める。
温泉から帰った後、私のワークショップがしたいと岸井さんが言って、少しだけど、体の地図を描いてもらって、それを私がツアーさせるというものをやってみた。もう少し時間があったらいろいろなことができるかもしれない。私の記憶の開示ももう少し時間が必要なので、また次回どこか、武蔵小金井などでやる予定にした。岸井さんは大阪に行かなければならないので、今日で道場破り合宿を終えて帰って行った。お疲れさまでした!

100502 道場破り日記 5月1日

昨日の朝、引き続き、岸井さんの手法について話しをする。
ダンスアーティストの上演から、時間を遡って、その源流に行こうとすることは、展示のような何かWORKに行き着くのではないか?という問いあり。

岸井さんが、誰かに「10年前の記憶を思い出してもらう」という取り組みの作品を作っていたということで、それを神村さんがやりたいと言い出して取り組む。手塚と神村さんが同じバレエの先生に教わっていたという事実にたどり着き(当人は知っていたが)岸井さん興奮。

昼前に、高嶋さんが来て、なぜか老後の話し、感覚を研ぎすませることができるのはどんな時か?等の話し。どのように自分をクリアーにいい状態にさせておけるか?私の答えは天候、月の周期、あるいは星の運行?天まかせ?という実のない話しになってしまう。老後、家族もなく、一匹で死んで行った犬のことを自分と重ねてしまったという高嶋さんの話題で盛り上がる。お互いに役割を果たし合えるある程度動きのある関わりがあれば、家族の代替えになるのでは?アーティストの老後、死に際、死に様について可能性について考えることで作品、あるいは某かのアウトプットは可能か?

高嶋さんに、美術史の質問続出。
自分という感覚を意識的に反映させはじめた時期は?
対象を観察するということの推移。
対象を描かないという選択、無対象の作品は?
自分の内面を描くという選択をする時期は?
それらが、モダンダンスというものとの繋がり。
モダニズムと、日本におけるモダン(欧米へのあこがれ的な)の違いは?
私自身がモダンというものを日本のシーンの中でどのように捉えてきたか?
つきない問い。

夜、舞楽の映像を見る。
思った以上に、血が沸き立つような感覚が芽生えてビックリ。
ふたたび明日取り組む岸井さんの手法についての話し。

100430 道場破り日記 4月30日

4月30日|神村恵、岸井大輔と共に、主に岸井さんの手法についての対話
〈対話のメモ〉
「劇場が苦手」…お客さんが全体で一塊になるのがイヤ
ポタライブなどで無意識にやってきたこと…ある中心となる雰囲気があったら、その反対となる一人を捜し、その人に向けて内容を変えずに計画を組み直す。
劇場でやることによって、特定の人しか共有できない何かが存在する感じ、それを秘密よ呼ぶとするとそれがイヤ。
秘密とハラは違う?
ハラについての対話…岸井さんはハラが読めるようになってしまった。ハラで人を動かす。ポタライブをやっていて商店街の中のボス的な存在の人が「ダメ」と言っていてもハラではいいと思っていることがある。それを読み取れないと仕事にならない。会議などで、誰かのハラの中にある物事が、非常に強くて他の全員に空気を読ませてしまう。などなど。
作品とは何か?それとお金の関係について。…アートは市民の小金を集めることで成り立っていた。→変化してきているので、方法を変えなければならないのでは?

〈展示と上演〉
なんだか分からない不定形な物事→課程を経て→展示 Work
かちっとした何か(例えば楽譜)→課程を経て→なんだか分からないもの  Act
形式に関する審美眼 数学が好き

マクロビの○○フィッシュは形式が破綻している
マジなマクロビは破綻してない。

形式は遂行されていれば好き。面白くなくてもオッケー。

ダンスは源流を遡ると展示に行き着くか?

080505 道場破りshowing 第2期/後半戦

道場破りとは、魅力的と感じるダンサーの手法に接近し、その道に深く触れる事で己の道を破る試みである。今回は出演者全員が誰かの手法に接近を試みる。手法とは、学んできたダンスのノウハウの事ではなく「自分にとってのダンスとは何か」という根本的な問いにより、独自に編み出された、マネの出来ない手法であり、常に試行錯誤の途上で様々に揺れ続け、揺らぎの中に見え隠れする一つの可能性でもある。何者も近寄れない前人未踏の領域、そこに接近しようと試みる過程そのものが、たくさんの秘密と謎を湛えた宝の山である。徒労に満ちた謎解きの旅にお付き合いください。

5月5日(月・祝)/5月6日(火・休) 
篠原の里 (JR中央本線藤野駅よりバスを乗り継ぎ約30分)
ご予約は、こちら
詳しい情報は、こちら

出演者と手塚夏子の解釈による手法

ここに示す手法の説明は手塚によって解釈している部分も多く、それは真実と言うよりも、ある視点からの解釈と言える。

黒沢 美香|基本的に目指す境地は、忘却している快楽。ふっくらしてる喜び。それとは別に、体はSM的な欲求があるのか?体の状態…腰に吸盤があって床を吸い上げているような重さを感じる。準備ものとそうでないものがある。準備ものの場合、(1)「言葉」を使って地図を書く(イメージが強く浮かぶ)呪術性があって、体の中に入ってくるようにする。机の上でそのイメージを持つ強さが大切。(2) 地図には具体的な動きの指示も入れる(外側からの視点を持つ)動作、行為をやるときは、忘れた瞬間にやる。(3) 前述の(1)と(2)で自分の体を挟む。体の中である「ねじれ」が生まれる。作品を組み立てていくどの段階でか、劇場を見て、自分がどのように動くか想像する。

捩子 ぴじん|自分の体から、或いはたまたま見かけた人やモノから、動きを採集する。採集した動きから、それぞれが本来持っていた意味に限定されない動きになるようにする。カウント、動きがぶれないように細部を決める体の無意識の領域を意識のドットで穴埋めする様に、可能な限り細かな所まで意識する。体が次の動きに映る時、イメージを思い描き、「行くぞ、行くぞ、行くぞ」と自分に指令を出している自分の声が、徐々に小さくなっていき、消えた瞬間に動く。自分の体が客席からどのように見えるかをはっきり意識して動きを組み立て、またそれが自分の実感の善し悪しとは矛盾しない。

山賀 ざくろ|頭が空っぽで、子ども。小さなことに心を動かされる状態。独り言や鼻歌を動きでやってる。それらが途切れ途切れに、シフトチェンジ。ある程度夢中で楽しいが、ひとつの事に集中せず、意外なタイミングでコロコロ変わる。変わる瞬間が楽しい。自分の予想の範囲を超えた動きが出ると、どんどん楽しくなる。決める事=音楽、衣裳、立ち位置、移動する導線。衣裳によって自然にあるキャラクターになる。音楽がかかると、気持ちがそれに反応し、またそれに対して動きのタイミングを微妙にずらしたり、別のメロディーやリズムをセッションのようにのっけて楽しむ。

中村 公美|ただ立っている。ぼーっとしている→腰椎の二番あたりの骨の左側がポカンと空く。結果下腹が無防備な感じでどかんと前に出る。ある種の受信状態。あるいは耳を澄ます。入る=「体が勝手に動く状態。ある種の感情が、体を動かす状態、多少の恍惚状態になる」まで待つ。そのための方法の一つとして「素振り」をする。同じ動きを何度も繰り返し、気持ちが体を動かして行く状態になるまで続ける。音楽がかかると楽になる。感情に作用する。素振りは丁寧に渾身のひと振りが出るまでやる。心を込めてこれだ!というひと振りが出来れば、その時そこにいる人すべてが幸せになれる、くらいに思ってやる。

手塚 夏子|意識とからだの距離をかなり離す。意識を介さずに、からだの細部が他の細部と繋がる。意識を介さずに、からだと外界が何かの繋がりを持つ。そのような状態になったからだを、意識が観察する。意識と筋肉を繋げない。特に表面の筋肉を使わない。この場合、意識と言っているのは表層の意識と言い換えることができるか?他の人が私の手法を試すにあたって、意識と筋肉を繋げない為に、どんなことをしても良い。私が最初に試みたのは、からだの極小さな一部に意識を集中した。しかし、からだのどこにも力を入れないで立っていられるかを試したり、同じ動きをやり続けることでも、そうなる可能性高い。

第2期前半戦のレポートは、こちら
第1期後半戦のレポートは、こちら
第1期前半戦のレポートは、こちら

出演|黒沢美香 中村公美 捩子ぴじん 山賀ざくろ 手塚夏子
日時|1st session 2008年5月5日(月・祝) 17:00スタート
   2nd session 2008年5月6日(火・休) 13:00スタート
★JR藤野駅から会場までのバスは、ごく限られた時刻しか運行しておらず特に5日の1st session終了後にはJR藤野駅までのバスはありません。両日は、出演者との交流の時間もたくさんご用意しております。ぜひとも1泊2日でご覧になることを、強くオススメします。
★1st session終了後と2nd sessionの開始前に手塚夏子による「遊びながら体を観察する」ワークショップ開催。
5月5日 20:00〜21:30 5月6日 9:00〜10:30
会場篠原の里 (JR中央本線藤野駅からバスを乗り継ぎ約30分)
「篠原の里」は、廃校を活用したNPOが運営する宿泊研修施設です。
showingをご覧になる方のご宿泊は、下記の予約先にて代行します。
料金|2日間 1,500円・いずれか1日 1,000円
ワークショップ受講料 2,000円(手塚による身体の観察WSを予定)
料金に食事代、宿泊費、送迎費は含まれておりません。
交通|藤野駅(JR中央線)からバスを乗り継ぎ約30分
企画・問い合わせ|070-5550-9321(手塚)042-689-5593(大澤)
当日問合せ|篠原の里(会場)tel : 042-689-2051 ※チラシの電話番号間違ってました。こっちがあってます。すみません!

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交通アクセス、ご宿泊、お食事の詳細は、こちら

080211 道場破り企画2期目 前半戦

2期目の参加メンバー決定!

黒沢美香 中村公美 捩子ぴじん 山賀ざくろ 手塚夏子

道場破りとは、手塚が魅力的と感じるダンサーの手法に接近し、その道に深く触れる事で自分の道を破る試みです。方法は、一緒に稽古場に入り手法についての話を徹底的にして、体で確かめていくというもので「踊っているときの状態はどのようなものか」という問いが基本になります。堅く聞こえるけれど、これらはリラックスした雑談から始まります。手法とは、学んできたダンスのノウハウの事ではなく「自分にとってのダンスとは何か」という根本的な問いにより、独自に編み出された、マネの出来ない手法のことです。

道場破りshowing前半戦へのお誘い


メンバーそれぞれの手法について、分かって来たことを話し、手塚がそれらの手法を実践してみます。今までの稽古に加え、さらに全員合宿稽古をし、最終日がショーイングとなります。ただし、今回の合宿およびショーイングは、黒沢美香さんが参加できませんが、私は美香さんの手法に取り組みます。春に行う後半戦のショーイングで美香さんも登場します。
さらにお楽しみがもう一つ。山と湖と温泉のまち藤野で、ダンスの本質に触れたり温泉に入ったりしませんか?会場となるホールの目の前が温泉です!

出演|中村公美 捩子ぴじん 山賀ざくろ 手塚夏子
日時|2008年2月11日(月祝)14:00スタート
   9日、10日も同じ会場で合宿稽古をしています。
   いつでものぞいてください。
料金|カンパ(物でも可)
会場|藤野農村環境改善センター(牧野公民館)3階 多目的ホール
   ショーイングの前後には、ぜひ「藤野やまなみ温泉」で
   ごゆっくりおくつろぎ下さい。
交通|JR藤野駅から「やまなみ温泉」行きのバスで15分
   「やまなみ温泉入口」下車、目の前が農村環境改善センター
   藤野駅前発やまなみ温泉行 11:40 13:10 13:47 (神奈川中央交通)
住所|神奈川県相模原市藤野町牧野4232番地
   tel: 042-689-2121
企画・問い合わせ|手塚夏子大澤寅雄
   070-5550-9321(手塚)042-689-5593(大澤)
※床の間レジデンスに宿泊可能です。希望者はお早めにご連絡ください。




※一部、お使いのブラウザによっては上記に申し込みのフォームが表示されない場合がありますので、お申し込みは、大澤寅雄まで、お名前、ふりがな、参加人数、宿泊希望などをメールで送信してください。

2008年2月11日 道場破り 二期目 前半戦のshowingを終えて

道場破りとは、手塚が魅力的と感じるダンサーの手法に接近し、その道に深く触れる事で自分の道を破る試みです。方法は、一緒に稽古場に入り手法についての話を徹底的にして、体で確かめていくというもので「踊っているときの状態はどのようなものか」という問いが基本になります。堅く聞こえるけれど、これらはリラックスした雑談から始まります。手法とは、学んできたダンスのノウハウの事ではなく「自分にとってのダンスとは何か」という根本的な問いにより、独自に編み出された、マネの出来ない手法のことです。

手塚夏子が挑む相手:中村公美 捩子ぴじん 山賀ざくろ 黒沢美香

〈道場破り 手法のまとめと前半戦の感想〉

●中村公美

裸足で登場、最初、ただ立っている。ぼーっとしている。→腰椎の二番あたりの骨の左側がポカンと空く。結果下腹が無防備な感じでどかんと前に出る。

ある種の受信状態。あるいは耳を澄ます。

入る=「体が勝手に動く状態。ある種の感情が、体を動かす状態、多少の恍惚状態になる」まで待つ。

そのための方法の一つとして
素振りする。同じ動きを何度も繰り返し、気持ちが体を動かして行く状態になるまで続ける。
(素振りの傾向としては、腰が据わるような動作が多い)

音楽がかかると楽になる。感情に作用する。

※本人からの補足:素振りは只回数をこなせばいいというのではなく、丁寧に渾身のひと振りが出るまでやります。心を込めてこれだ!というひと振りが出来れば、その時そこにいる人すべてが幸せになれる、くらいに思ってやっています。それは、人の為にやっているのではなく、そのくらい思わないと渾身のひと振りは出ないのです。

★ 入る、という状態はある種のダンサーにとってある程度同じかもしれない。けれど、その入った状態は個人の身体的欲求により多様だ。彼女の場合、ある種の感情が体を突き動かしているように感じる。私のように身体を物化しないで、人のままでいるようだ。…ああー、どういう状態なのか、見定めることは本当に難しい。彼女の入った状態をいくつか思い出しても、ひとつにまとまらない。あたりまえだ、それがダンスの所以なのだ。
★ 乱暴なのがいやになったと彼女は言った。切実さ、を激しさの中で見いだすということに違和感を感じ始めていて、別の切り口を探したいのかもしれない、と思った。

● 山賀ざくろ

頭が空っぽで、子ども。小さなことに心を動かされる状態。
独り言や鼻歌を動きでやってる。それらが途切れ途切れに、シフトチェンジ。ある程度夢中で楽しいが、ひとつの事に集中せず、意外なタイミングでコロコロ変わる。変わる瞬間が楽しい。
自分の予想の範囲を超えた動きが出ると、どんどん楽しくなる。

決める事
音楽、衣裳、立ち位置、移動する導線。
衣裳によって、自然にあるキャラクターになる。
音楽がかかると、気持ちがそれに反応し、またそれに対して動きのタイミングを微妙にずらしたり、別のメロディーやリズムをセッションのようにのっけて楽しむ。

ベースとなる体の状態
足の付け根が緩んで、腰がスムーズに動く。
腸腰筋が生き生きとして気持ちが動きやすい。
上半身にボリュームがある。→足が軽い。気持ちが動く

「立ってるだけで面白い」居かた。それは恥ずかしい、という状態のまま舞台上に居られるという特異な技だ。

★ まず、自分が普段の自分に限りなく近い状態で、恥ずかしいという状態のままお客さんの前に居るということの難しさ。本当に恥ずかしい。客席に顔を向けられない。だいたい独り言を言ってしまうような、ゆるい精神状態で人前にいられること自体、奇跡に近い。子供のように少しのことに心を動かすような、一人きりで居るときに見つける楽しみを、人前で維持できるというのはどういう状態なのか。限りなく普段の自分に近い状態の時に、人前で計られている「恥ずかしい度合い」というのを初めて発見した。お客さんを前にして、山賀手法を実践している最中に、「ピピピピ、これ以上恥ずかしいのは無理。無理」と心が拒絶反応を示す、その感触を初めて味わった。フリーズ状態も初めて味わった。気づかないうちに、ある程度、恥ずかしい目に遭わないよう自分を調節していることを発見。そういう意味では、恥をかいた甲斐があったというものだ。
★ 彼の無意識の領域から出てきた「居かた」や「ノリのある状態」を、意識的にやろうとすることの限界に突き当たっている。体の状態を意識するというアプローチにもそういう意味で矛盾があって難しい。けれども、矛盾することのバランスや案配で近づく道を探したい。つまり「身体的アプローチ」と「気持ちの状態を自然に導く」ことを。

●捩子ぴじん

上演時間を決める
自分の体から、或はたまたま見かけた人やモノから、動きを採集する。
採集した動きから、それぞれが本来持っていた意味に限定されない動きになるようにします。
カウント、動きがぶれないように細部を決める
体の無意識の領域を意識のドットで穴埋めする様に、可能な限り細かな所まで意識する。
体が次の動きに映る時、イメージを思い描き、「行くぞ、行くぞ、行くぞ」と自分に指令を出している自分の声が、徐々に小さくなっていき、消えた瞬間に動く。

自分の体が客席からどのように見えるかをはっきり意識して動きを組み立て、またそれが自分の実感の善し悪しとは矛盾しない。

★ 即興で彼が踊ると、意識しきれない部分や、体の反応する要素がむしろ強く体から噴出する。その感じが私の手法にとても似ている。頭は意識しきる、コントロールしきる、コントロールから外れる瞬間も意図的につくるという指向性を持つとしても、体自身の持っている性質は、むしろ意識にとらわれきれない身体的欲求に満ちているのかもしれない。しかし、細かく意識し続けること、コントロールや意図といったあまり経験のないことに取り組む時、私が「制御」してると感じさせるアウトプットでは意味がないなー。捩子さんのを見たときは、即興か?と感じさせるほど「制御」という言葉からは遠い。
★ 本人の感想
道場破りの感想ですが、僕の手法は言葉にしたり、他者が実践する分には“まさに”という感じで納得して観ていられるのですが、自分で自分の手法を忠実に再現しようとしたときに、踊りが狭まる違和感がありました。
例えばカウントや細部なんかも、作品作りの段階ではしっかり決めて、ブレのないよう、実際に数も数えながら踊っているんですが、実感(この言葉です)としては“やることは決まっているけど決まっていない”という感があって、ショーイングではそこが、つまりいつもの自分の状態が、手塚さんに伝えるために言語化した自分の手法に抑制されて、とても苦しく、不満足に終わってしまいました。
まだ、十全に伝え切れていない部分があり、あるいは喋りすぎたのかも知れませんが、それに気がつかづにいたことに反省しています。

● 黒沢美香

基本的に目指す境地は、忘却している快楽。ふっくらしてる喜び
舞台の上で、お客さんも見てるのに、照明もあたっているのに、今、なんのためにここにいるのか、忘れている状態。
それとは別に、体はSM的な欲求があるのか?

体の状態 腰に吸盤があって床を吸い上げているような重さを感じる。

準備ものとそうでないものがある。
準備ものの場合
①「言葉」を使って地図を書く(イメージが強く浮かぶ)
呪術性があって、体の中に入ってくるようにする
机の上でそのイメージを持つ強さが大切

②地図には具体的な動きの指示も入れる(外側からの視点を持つ)
動作、行為をやるときは、忘れた瞬間にやる

③ ①と②で自分の体を挟む。体の中である「ねじれ」が生まれる。

作品を組み立てていくどの段階でか、劇場を見て、そこに自分がどのように動くか想像してメモを取る。外からの視点をはっきりと持つということだと思う。その点で捩子さんとも共通する部分がある。

★ イメージとは何か?イメージとはもう一つの現実であると言えるか?
 「そんな感じー」から「目の前で手で触れるかのように」までの幅があるように思う。美香さんの地図を見たとき、その言葉が私の現実に浸透してくるかのように、心身の深くに迫ってくる。圧倒的な実在感がある。その手応えが、美香さんの「重さ」や「ねばり」「刻印」だろうか。もしかしたら、「準備もの」による美香さんの手法では、イメージの強度というのが一つ大きいのかもしれないと思った。
 ショーイングで私が挑んだ時に、自分の手法とは明らかに違う心身の状態が出現したという意味で手応えがあったが、忘却した「ふっくら」からはほど遠かった。再チャレンジしたい。

〈全体の感想〉
身体的な状態というアプローチには限界がある。無意識の領域から出てきたことを、意識して行うことの矛盾にも突き当たっている。しかし、こうして試して初めて、聞き出した言葉の実感が体にやってくる。自分の感覚では届かない部分、見極めようと思って見定められない部分、何が判らないかが実演して初めて判ってくる。私自身の道を破る破壊力となるまで、しつこく自分の前提を細分化して、それぞれのアーティストの手法に接近したい。

あらためて、それぞれの魅力を実感し、またその魅力を超えられないのはくやしい。あたりまえだが、そこを超えようと思うことが道場破りのひとつでもある。そしてそのとき初めて自分の道も破るのかもしれない。道場破りあいでは、お互いにそこを目指すことが出来れば、ヒリヒリとした鬼気迫る、しかし最大に可笑しい会になるだろう。